Ⅰ. 池ノ上のイメージ
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<会員のもつ街のイメージ>
・夕日がきれいに見える街
・駅を降りたらホッと心がほぐれる。こじんまりと、でも、奥深くて面白いお店、曲がりくねった小道がいっぱい。
・親子姿や井戸端会議の似合う場所。
・通学路だからね。中学生、高校生。今日は体育祭か!とかね。
・誰かと誰かが必ずおしゃべりしてる風景があります。
・「池ノ上音頭」があります。小学校で踊りを習って、盆踊りでは必ず盛り上がる。
・井の頭線の土手の菜の花と紫陽花はほんと~にほんと~に綺麗で。
・9月の北澤八幡宮の大祭は地元の誇り。卒業した友だちに会える大切な場所と行事。
・保育園多いよね?
・鶏の唐揚げがメチャクチャ旨い店がある、教えないけど。
・池之上小学校の新校舎完成が待ち遠しい。桜の木がまた育って。切られた姿は切なかった。
・朝、老人らが元気に歩いている。
・緑道の小川にザリガニがいっぱいいる。
・店主に味がある人多い。とにかく濃い人が多いね。
・秋のふれあいバザールが楽しみ。美味しい、楽しい、子供が安心して歩いてる。
ああああああああ
ああああ嗚呼
<街の人に聞いた“いけのうえ”>
・池之上小学校が街の中心。なんだか安心だね。
・池之上青少年交流センター(通称“いけせい”)があるのが池ノ上のいいところ。
こども向けのイベントもよくやっているし誰でも利用できるところがいい。赤ちゃん連れもよく見掛ける。
・“いけせい”が懐かしい。いつも友だちと待ち合わせてはダラダラと時間を過ごした。
・マック(マクドナルド)がない!ファーストフード店ナシ!学生多いのにねぇー。
・ここで商売して数年目。その前は下北沢にいたけど家賃が高くて売り上げばかり気にしてた。ここはいいよ、細々とだけど自分の好きなことができてる。
・池ノ上で育った人が家族をつれて池ノ上に戻ってくる話をよく聞くわね。
・商店街が閑散としているのに人は沢山歩いている。
・利便性はピカイチ。渋谷、新宿、吉祥寺、三軒茶屋にすぐ行ける。淡島通りのバス停には5分毎に渋谷行きが来る。
・この頃、若い人のおもしろそうな店が増えてるね。
・あのパン屋さん、テレビでも雑誌でもすごい人気だねー
嗚呼嗚呼
<池ノ上音頭>
・子どもバージョン(1975年(S60)、池之上小学校の5年生が作詞作曲しました)

・大人バージョン

嗚呼嗚呼あ
Ⅱ, 池の上の郷土史(池之上小学校50周年記念誌より)
池ノ上’の由来
世田谷七沢(馬引沢、池沢、深沢、奥沢、廻沢、上北沢、下北沢)の一つである下北沢に小字名として‘池の上’が残っています。
その由来は、昔、池ノ上と池尻の間に大きな池があったためと言われています。
この池のはっきりとした証拠はないのですが次のようなことが解っています。
目黒区大橋に住む進藤たきさんの家は旧家で俗称「いけ」と呼ばれ、庭には小さな池が残っていたそうです。
家の伝えでは、大昔はここまで海が入っていたと。
また、広い敷地は殆ど湿地で弁天様の祠(現存)があり、土地の人は‘蛇池の弁天’と呼んでいたそうです。
(弁天祠は池があった証拠と言われている。)
嗚呼嗚呼嗚呼
嗚呼嗚呼あ
<昭和初期の街のようす>

あああ
東京市発行(1932 S8)の地図に「池の上」が明記されています。その地図を見ると小学校は畑でした。
北は竹やぶ、西は雑木林、東の斜面に牧場がありました。淡島通りに下る道の両側も林で、
佐藤元首相のお屋敷の辺りは赤松がいっぱいで‘松林’と呼ばれていました。
駒場東大前駅から池ノ上駅に掛けても松林で、池之上小学校のシンボル‘赤松’もその一本だったのでしょう。
青少年交流センター、東電の宿舎、阿川氏宅辺りは‘海外植民学校’でした。
桑井いね著書「おばあちゃんの知恵袋」に、‘この学校には多くの苦学生がおり、早朝に赤坂方面まで
牛乳配達や新聞配達などしながら卒業しブラジルへ渡航していった、校長は小柄な牧師で苦学生のために献身的だった
などと書かれています。また、池ノ上の辺りは箱根土地会社が森林を開墾して、
ひな壇式の住宅地を造成し坪7円で買った土地を20~30円で売り出したと話題になったことや、
S9頃、淡島さま(森厳寺)のそばに宇野千代さんが住んでいて、銀座に半日がかりで髪に鏝をかけに行ったそうで、
費用は25円かかるけれど半年は持つという噂がたったことや、当時、東郷青児(画家)と一緒に暮らしていた事なども書かれています。
1933年に井の頭線(当時は帝都線)が開通。いつもがら空きで走行中に電車の扉が外れたこともあったという話です。
帝都線は当初、東北沢駅で小田急線と交差する予定でしたが住民の反対で下北沢で交差させたということです。
そして、1940(S15)池之上小学校が開校されました。
池之上小学校の校名は、池ノ上駅と同様に字名ですが、校名の「之」は格調上、初代岸上校長が名付けたものです。
嗚呼嗚呼
嗚呼嗚呼
<昭和30年(1955)の街のようす>

嗚呼嗚呼
嗚呼嗚呼
<現在の街のようす>

嗚呼嗚呼
嗚呼嗚呼あああ
Ⅲ, 通称“いけせい”(世田谷区立池之上青少年交流センター)
あああ
子供たちの憩いの場で、ゆっくりマンガ本を読んだり、卓球、テニス、バスケットをしたり、当時はまるで家の様に出入りしていた。
きっと今も変わらずだろう。
あああ
あああ

あああ
あああ
Ⅳ,地域の歴史と日本近代史(地域の小新聞“ミニコミ7”より抜粋)
嗚呼嗚呼
1855頃 森厳寺前の伊東氏宅の寺子屋が代田村と下北沢村の境にあったので代沢塾と名付けられた。それが“代沢”の始まり。
1868 明治維新
1880 代沢学校開設(後に代沢小学校(1927)へ)
1889 大日本帝国憲法発布、下北沢村、代田村は荏原郡世田谷村へ(8村合併)。
1909 品川警察署代田駐在所開設(現 淡島通り交番)陸軍獣医学校開校(現富士中一帯の地)
1914 第一次世界大戦勃発
1923 関東大震災 世田谷村→世田谷町へ
1925 渋谷、淡島、若林に路線バス開通
1929 北沢川の蛇行の整備工事始まる。桜を植樹(後の通称“緑道”)
1931 満州事変
1932 東京市世田谷区へ(下北沢は北沢1~5丁目へ。代田は代田1~2丁目・下代田町・大原町へ)
1933(S8) 井の頭線開通 池ノ上駅開業、多聞小学校開校
1937(S12) 日中戦争、池ノ上駅前郵便局開設(窓口業務のみ)
北沢小学校開校
1939 第二次世界大戦勃発
1940(S15) 池之上小学校開校
1941 太平洋戦争勃発(日本と英米との開戦)
1943 東京府、東京市→東京都へ
1945 第二次世界大戦終了、空襲で代沢1丁目、代沢4丁目に甚大な被害
1946 日本国憲法発布
1947 第7出張所設置(現 代沢まちづくりセンター)
1948 富士中学校開校
1951 対日講和条約調印
1959 花御堂小学校開校
1964 東京オリンピック開催、住居表示法発令で北沢1~2丁目と下代田町は代沢1~5丁目に。ここで始めて「代沢」が地名となる。
1969 代沢地区会館開設
1978(S53) 北沢学童保育クラブ(現きたっこ)開設
1979(S54) 池之上青少年会館開設
1984 代田南児童館開設
1989 代沢東地区会館開設
1990 北沢タウンホール落成
1997 せせらぎ公園開園
2006 あんしんすこやかセンター開設
2009 代沢まちづくり出張所→代沢まちづくりセンターへ
2011 東日本大震災
2017 花御堂小学校閉校
2018 北沢小学校閉校